カルチャーセンターや占いスクールで講座をやらせていただくと、よくいただくのがこんな質問です。
「タロットを勉強したいのですが、お勧めの本はありますか?」
「占星術ではどの本がいいでしょうか」
そんなとき、つい口にしてしまうのが、「さあ、どの本もいいですからねえ」というあいまいな答え。
で、先日、はたと気がついたのです。この答え方って、京都の「イケズ」な人間のまんまやないか、と。どういうことかって? ご説明しましょう。
観光客として京都にいったとします。で、土地の方に「どこか美味しいお店ありませんか」と聞いたとする。もしその人が生粋の、というか京都的な京都人(?)だったら、まさにさきのぼくと同じように「さあ、どこも美味しいですさかいなあ……」と答えると思うのです。
尋ねたほうは、教えてくれない、意地悪(イケズ)だなあと感じてしまうことでしょう。たしかに。どこか、1つ2つ教えてくれてもいいのに、という気持もわかります。
でも、答えにくいほうには答えにくいという理由があるのです。地元の人間でも、お気に入りの店の1つや2つは必ずあります。けれど、初めてお会いするような方だと、どんな味、どんな雰囲気、どんなサービスが好みなのかわからない。
また狭い町のこと、ある店を勧めてほかを勧めないというのも、近所のおつきあいの上で気が引けてしまうこともある。それぞれの良さがあるので、すぐにここ!というふうにはお勧めも紹介もできないのです。
そんなことをぐるぐる考えているうちに(といってもその間、1秒)「さあ、どこも美味しいですさかいなあ」という答えになってしまう。
ぼくの場合も同じです。お勧めの占星術の本、といわれても、どのようなものを求めていらっしゃるかわからない。
たとえば、美しい文章と感受性で書かれた星座占いの本もあれば、歴史的なことに関心が高い人向けのものもある。技法的な洗練を求めている人向けのものもあれば、心理学的な洞察の深さを誇るものもある。ざっと入門できるものもある。
どれが向いているのか、コンシェルジュではないのですから、一瞬で判断することは難しい。
また、多くの著者とも友人だったりもするので、一人の本だけを勧めるのも気が引けてしまう。だから、「さあ、どの本もいいですからねえ」となってしまう。
まあ、本音をいえば、「全部」といいたいところではあります。東洋の占いの本ならいざ知らず、日本で出ているような占星術の本は、すべて集めても実は知れています。そうしたものを手当たり次第に読んでいくというのが実は一番のお勧めでもあるのです。
サイトのレビューは残念ながら、あまりアテにはなりません。自分の目と頭で判断していくのが一番。
とくに占星術の場合、そもそも、「スタンダード」などは存在しようもないのです。大学予備校ではないのですから、カリキュラムをこなせばいい、というものではない。そして、だからこそ豊かで面白いのです。
客観的な自然科学ではないのですから、星のシンボリズムに何を読みとるかは、その人自身の世界観や人生観がダイレクトに反映されます。
そうした「主観的」な哲学が、占星術だといっていいでしょう。
これもお店と近しい。どれが正しいか、正統的かを求める読み方は、どれが絶対的に美味しいか、を論じるようなもの。「美味しい、まずい」はお店にいえても「正しいか、正しくないか」はいえないでしょう?
それよりもたくさんのお店を味わっていって、ときに、違うテイストを楽しみ、ときには自分でその味を再現してみる。そうやって、舌を肥やしていけば、またお料理の違った楽しみ方もできるようにもなるはずです。
そして、これは占星術だけにあてはまることではありません。「正解」なんてすでにないということがわかっている今の時代の文化全般の楽しみ方にも通じると思います。
そんなことを前置きとして頭のどこかにおいておいていただいてから、近いうちに私的なお勧め本などもご紹介していきますね。