「鏡の視点」とは

鏡リュウジが何を感じ、何を思考しているか。気楽なものからレクチャー的要素もからめた雑文コーナー。海外のアカデミズムの世界で占星術を扱う論文などの紹介も積極的にしていく予定です。

Character is Destiny? 占星術におけるダイモーンの感覚をめぐって1

2020年の「日本占星術カンファレンス」での講演録を主催者からのご許可を得てここに掲載致します。

日本占星術カンファレンスは始まったばかりの動きですが、日本を代表する占星術家たちが集い、発表の場としています。海外で活発に行われているような活動を日本でもやっていこうという動きです。
2020年(第2回)のテーマはDestinyでした。
そこから連想し、現代占星術と古代の占星術をつなぐ「ダイモーン」の話をしています。

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アラン・レオからヘラクレイトスへ

2020年の日本占星術カンファレンスのメインテーマは、「Destiny」(運命)である。このDestinyという言葉は、占星術の学徒にはCharacter is Destiny(性格が運命なり)というフレーズを真っ先に想起させるのではないだろうか。そう、「モダン占星術の父」アラン・レオ(1860-1917)が自らの占星術のモットーとした成句(※1)である。そしてこの句が現代の占星術を強く方向付けたことはよく知られている。
神智学の信奉者であったレオは、宿命論的(顕教的)占星術と秘教的占星術の二つの学派があると主張する。前者は、気まぐれな天体の力に支配される人間の運命を判断することに主眼を置く。いわば通俗的な「占い」だ。一方、レオが模索し、追求しようとした秘教的占星術は「性格(キャラクター)、性格こそが運命(ディスティニー)を決定するとみなす。必要なのは、たとえそれがどんなに正確なものであろうとも予言ではない。レオにとっては「一人一人の人間が己を統べる法であること、そして一人一人のうちに自身の運命を創造する力がある」(※2)という認識を広げることが占星術の真の目的なのである。

従来の占星術は決定論的、宿命論的、そして「出来事中心的」であり、現代占星術は自由意志を重視し、「人間中心的」、あるいは「心理学的」に人を成長させる方向へと進むべきである、そしてこのモダン占星術のアイデアの萌芽がレオにみられるというのは現代の占星術家の一般的な理解であろう。(※3)己を知ることが運命を創造する。自分を陶冶することが自らの運命を切り開くことになる。このような、いかにも近代的な人生観、運命観がレオの占星術観の背後にある。これは宗教学者ゴドウィンの言葉を借りるなら「神智学的啓蒙」主義と呼ぶこともできよう。(※4)

しかし、この”Character is Destiny“という成句は、レオが作り出した新しいものではないことに注意しよう。レオ自身はその出典を明示していないようだが、この成句が紀元前「ソクラテス以前の」哲学者ヘラクレイトス(BC500頃)が残したものであることは西洋の精神史を少しでも知るものにとっては常識である。(※5)レオはわざわざこの成句の由来を説明するまでもなかったのだろう。レオがモットーとしたこの成句は、「現代的」であるどころかはるか古代のものなのだ。この成句に対するレオの解釈がどのようなものであれ、Character is Destinyという言葉の響きは 遥か哲学の始原へと僕たちを連れ戻す。技法論として占星術を見ていたのでは感知しにくい、古代から現代へと続くアーキタイパルな運命観の系譜がこの言葉から浮かび上がってくる。そしてそれは、占星術における「星の守護霊」という神秘的な概念の伝統と緊密に結びついていることを思い出させるのである。

エトス・アントロポイ・ダイモーン

アラン・レオのモットーCharacter is Destinyは、今に残るヘラクレイトスの断片ではエトス・アントロポイ・ダイモーンEthos anthropoi daimonというギリシャ語で表現されている。エトスは「性格」、アントロポイは「人間」、そしてダイモーンが「運命」であるから、文字通りに受け取れば「人間の性格、習癖はダイモーンである」ということになる。(※6)むろん、これをレオのように人間の性格が運命を創造することができると解釈することもできるが、(※7)一方で、「人間にとっての所与の性格は宿命である」(※8)と訳すことも可能である。すると、レオとはまるで逆の解釈となる。卑近な例を用いれば、偉大なスポーツ選手に「自分の成功は才能の賜物ではない。努力の結果だ」と励まされた後進が、「自分には努力するという才能がない」と落ち込む場合を思い起こせば良い。(※9)実際、僕もこの言葉を最初に耳にしたときには、自由意志を賞揚するものか、深い決定論を導くものなのか、考え込んでしまったものだ。確かにレオは自由意志の信奉者である。しかし、このDestinyという言葉が元来、Daimonであることを考え直せば、ここにはただただ楽観的でシンプルな自由意志の賞揚以上のものがあることがすぐわかる。
そしてダイモーンとは端的に言えば「神霊」であることを忘れてはならない。ODEによれば「神々と人間の間の性質を持つ神的ないし超自然的存在」とある。この「ダイモーン的存在」、知的な”他者“はひとり古代ギリシャだけのものではなく、時代や地域を超えて普遍的なものとみなすこともできる。ダイモーン的なるものは、「自律的神、精霊、天使、ミューズ、あるいはダイモーン、…ユング的な意味での”無意識“…”小さき種族”(妖精)、ときにSFのエイリアン」として捉えられてきた。(※10)西欧においてはダイモーン論には長い系譜がある。古代ギリシャのダイモーンはソクラテスを始めプラトンから新プラトン主義者たち、ルネサンスの思想家、また天使や悪魔と同一視されてからはキリスト教者たちに詳細に論じられてきた。
なかでも有名なのは、かのソクラテスに事あるごとに囁きかけてきた「声」としてのダイモーンであろう。プラトンが伝えるところでは、
「わたし(ソクラテス)には何か神からの知らせとか、鬼神(ダイモーン)からの合図とかいったものがよく起こるのです。…これはわたしには子どものころから始まったもので、一種の声となってあらわれる」ということである。(※11)もっともソクラテスの場合には、ダイモーンの声はもっぱら、禁止、抑制の場合に聞こえてくるとされている。ソクラテスが甘んじて死刑の宣告を受け入れ刑場に赴くのも、この場合にはダイモーンの声がソクラテスを”引き止めなかったから”なのだ。
これだけを見ると、合理化された現代人は、ダイモーンとはフロイトのいう超自我のごとき、一種の内面の理性の擬人化あるいは隠喩であるとみなすかもしれない。となればこれは現代人には納得しやすい。実はそうした解釈はプラトンの時代からあった。以下のテクストはその見方を如実に語っている。

「ところで、われわれのもとにある魂で、至上権を握っているもの(理性)については、こう考えなければなりません。――すなわち、神が、これを神霊(ダイモーン)として、各人に与えたのである――と。そして、そのものはまさに、われわれの身体の天辺に居住し、われわれが、地上の、ではなく、天上の植物であるかのごとく、われわれを天の縁者に向かって、大地から持ち上げているものだと、わたしたちは敢えて主張したいのです・・・・
欲情や野心の満足のみ汲々として、そのようなことのためにのみ労すること甚だしい人にとって、その思いのすべてが、死すべき(地上的な)ものになり……しかし、これに反して、学への愛と、真の知に真剣に励んできた人、自分のうちの何ものにもまして、これらのものを精錬してきた人が、もしも真実に触れるなら、…およそ人間の分際に許される限りの、最大限の不死性にあずかりことに(なるのです)……そのような人はまた、何分にも常に神的なるものの世話を欠かさず、自ら、自分の同居者なる神霊を、よく整えられた状態で宿しているのだから、彼が特別に幸福(エウダイモーン、よきダイモーンをもてるもの)であるということも、おそらくは必然でしょう。」(※12)
内面の理性、良心の声にしたがって生きれば罪悪感もなく、その人は幸福になれるというわけである。しかし、思い出しても見よう。ダイモーンの声に従った(というよりも声が聞こえなかったことに従った)ソクラテスは無実の罪で死刑にあうのだ。これは幸福だろうか。いや、真理に生き、真理に死んだソクラテスを「幸福」だったとしても、このダイモーンを理性の声と言えるだろうか。(※13)
ダイモーンは、単なる「理性」ではないのだ。こうした「合理的」な解釈が生まれる以前、
より古くは、ダイモーンは「神霊」、「鬼神」と訳されるように、内面的、心理的な存在に収まりきらない、外的、自律的存在として想定されてもきたのである。
実際、プラトンのダイモーンは人間の内なる「理性」の隠喩としての範囲には収まりきらない。
「ダイモーンのたぐいはすべて、神と人間の間にあるもの」であり「人間の思いを翻訳して神々に伝え、神々の思いを翻訳して人間に伝える。すなわち、人間の祈りと供物を神々に送り届け、神々のお告げと供物の返礼を人間に送り届ける。そして、両者の間に立ってその溝を埋め、全宇宙を一体化させる…」
しかも「このダイモーンが媒介となり、すべての占いは執り行われる。また司祭は供物を捧げたり、秘儀を行ったり、呪文を唱えたり、あらゆる種類の予言や魔法を使うが、そのような司祭の技術もまたダイモーンが媒介となる。神が人間とじかに交わることはない。神々と人間の間の交流と会話は、人間が目覚めているときに行われるものであれ、眠っているときであれ、すべてこのダイモーンを媒介にして成立する。これ以外の分野での賢者は、技術分野であれ、工芸分野であれ、卑しい職人に過ぎぬ」(※14)とされているのである。
ダイモーンは宇宙的、超越的存在でもあり、また人間に予見と占いの力を与え、そして通常の仕事においてもダイモーンの息吹が加わった場合にのみ、そこに真実の価値が宿るというわけである。このダイモーンの自律性、超越性は現代人には理解しがたい。僕たちはダイモーンのリアリティを見失ってしまったのかもしれない。それは占いをにわかに信じられなくなってしまった僕たちの状況を映し出しているのでもないだろうか。

(つづく。)

Character is Destiny? 占星術におけるダイモーンの感覚をめぐって2
Character is Destiny? 占星術におけるダイモーンの感覚をめぐって3
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※1 Alan Leo The Art of Synthesis Destiny Books1983 (1912 3rd edition) p134
Leo “Symbolism and Astrology”など随所にみられる。

※2 Cited in Patrick Curry A Confusion of Prophets Collins & Brown Limited 1992 p132

※3 近代、現代占星術の誕生とレオについては鏡リュウジ『占星綺想』新装版 青土社2007所収「占星術の近代」、津曲真一・細田あや子編『媒介物の宗教史』リトン2019所収 比留間亮平「作用者から媒介者へ」など参照。

※4 Joscelyn Godwin The Theosophical Enlightenment S U N Y 1994
なお、レオは前世とカルマの信者である。輪廻転生は現代人にとってにわかに受け入れがたいアイデアかもしれないが、しかし、この「前世」をカッコに入れて、ホロスコープを「潜在的可能性の地図」と見なせば秘教的占星術から心理学的占星術への展開は容易であろう。また人間の魂には天体は影響せず、肉体にのみ影響するという理解にはプラトンに始まりキリスト教の枠内でも採用された長い系譜がある。その意味ではレオは単純に「モダン」とは言えない。

※5 廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫1997 p104

※6 この句のさまざまな翻訳についてはジェイムズ・ヒルマン著 鏡リュウジ訳『魂のコード』河出書房新社1998 p326-7

※7 廣川洋一 前掲書では「人間の運命は、その人がらが作るもの」という訳が採用されている。

※8 ヒルマン 前掲書p327

※9 才能、天才は英語のgeniusであるが、これはギリシャ語のdaimonのラテン語訳でもあることに注意されたい。

※10 Angela Voss and William Rowlandson “Introduction” p1 in ed.by Voss and Rowlandson Daimonic Imagination Cambridge Scholars Publishing 2013

※11 プラトーン著 田中美知太郎・池田美恵訳『ソークラテスの弁明 クリトン パイドーン』新潮文庫1968、2015 p53

※12 プラトン著 種山恭子訳 『ティマイオス』 岩波書店 1975 p173

※13 ソクラテスのダイモーンの解釈については田中龍山著『ソクラテスのダイモニオンについて』晃洋書房2019など参照

※14 プラトン著 中沢務訳 『饗宴』 光文社古典新訳文庫 キンドル版

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