「鏡の視点」とは

鏡リュウジが何を感じ、何を思考しているか。気楽なものからレクチャー的要素もからめた雑文コーナー。海外のアカデミズムの世界で占星術を扱う論文などの紹介も積極的にしていく予定です。

天使的な交わり ウィリアム・リリーとムンドゥス・イマジナリス

天使的な交わり ウィリアム・リリーとムンドゥス・イマジナリス

リリー400周年記念「占星術家の饗宴」における講演より
                   ジェフリー・コーネリアス

今回もジェフリー・コーネリアス先生より翻訳紹介のご許可を頂きました。
伝統、古典占星術の勃興期には リリーや過去の権威者たちの提示したルールを遵守さえすれば未来予測が可能になると考える人も多くいました。
また近代占星術の祖であるアラン・レオが17世紀までの占星術を大きく歪めてしまったともしばしば語られます。
しかし、ここでコーネリアス博士は、挑発的なことをおっしゃるのです。
リリーとアラン・レオには目に見えない、スピリチュアルな世界への感受性という点で大きな共通項があり、レオはまた占星術の「伝統」の継承者である、むしろ、目に見えるルールにばかり耽溺しているようではリリーを理解したことにはならない、と。
ここでは「伝統占星術」対「心理占星術」という対立軸は意味をなしてはいません。
占星術の哲学、世界観の問題なのです。
この挑発的な議論について、みなさんはどうお考えになるでしょうか?

(鏡リュウジ記)

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ANGELICAL CONSORTS.
初出 The Company of Astrologers Bulletin no.40 Solar Eclipse 19 Gemini 11 June 2002

天使的な交わり ウィリアム・リリーとムンドゥス・イマジナリス

リリー400周年記念「占星術家の饗宴」における講演より
                   ジェフリー・コーネリアス
                   訳・鏡リュウジ

私たちはみな、ウィリアム・リリーを尊敬しています。しかし、リリーの理解の仕方についてはどうでしょうか?私たちは、どのようにリリーを理解しているでしょうか?この質問の答えは、みかけほどには明白ではありません。
ここでは私たちの多くがリリーへ接近する第一歩としている、ホラリーから始めてみましょう。少しでもホラリー占星術を味わったことのある人なら、リリーの『クリスチャン・アストロロジー』に見られるリリーの技術の業に圧倒されるものです。そこには実に見事な実例を見ることができますから、これはすごい、この人物がやったことだ、だからそれを学ぼう、ここにルールがある、と言うようになるでしょう。リリーの流儀による占星術は、とても具体的で地に足のついたものです—-彼の出生図の牡牛座と山羊座を見てください。そして、これは私たちが彼をどのような枠組みに当てはめ、彼の占星術を見ているかも示しています。それは地に足のついた、実用的で、技術的で、日々の現実に適用可能なものに見えます。

しかし、さらに深くみていけば、すぐにこのような視点がいかに狭くて小さいかを見出すことになるでしょう。ただ、この時点ですでにリリーの占星術と自分たちの占星術を過度にリテラルで(字義的で)決定論的に解釈している伝統主義者の一部の人から、反感を買ってしまうであろうことを認めなければなりません。もしあなたがリリーの「ルール」に従っているだけで、『クリスチャン・アストロロジー』に見られる客観的なクラフトにまつわる単純な予測的な解釈にとどまっているうちは、リリーの占星術についての理解の4分の1もわかっていないのだと言わざるを得ません。リリーの扱った技術について言っているのではありません。ましてや彼の下した占断例のどれほどの数を知っているかについて言っているのでもありません。私が申し上げているのは、経験の質、方向性(order of experience)のことなのです。
リリーの偉大な教科書の中で明らかにされているのは、リリーが渉猟してきた世界のほんの一部だけなのです。彼を理解するためには、息を呑むような占星術の領域に入らなければなりません。そしてこれは、私たちがめったに語ることができないような領域です。
私がここで提起したいテーマとは、そう、ムンドゥス・イマジナリス、つまり「想像界的世界」の教師としてのリリーを見てとって、リリーを理解し、敬意をもつべきである、ということなのです。

リリーからレオへ
私たちの占星術には、ほとんど認識されておらず、十分に理解されていない伝統があります。それは様々な名前で呼ばれています。それはヘルメス思想、グノーシス、魔術といった、大雑把なカテゴリーに投げ入れられている伝統です。
これは遠い古代からの伝統であり、ピュタゴラス学派や密儀宗教の潮を受け継いでいます。プラトンは、この伝統の視座と視野を知っていました。そしてそれは新プラトン主義に流れ込み、11世紀から12世紀のスーフィー神秘主義者、そして神秘的な占星術師に受け継がれてゆきました。
その痕跡はダンテやルネサンス期の魔術―宗教思想全体の中に見出すことができます。占星術はその中心にある宝石のようなものでした。リリーの占星術のルーツはここにあるのです。そう、新プラトン主義的、ヘルメス思想的、そして魔術的な伝統の中に、です。リリーの偉大な友人でアシュモールとリリーとの関係は重要であり、示唆するところが大です。アシュモールは学者にして、魔術師、そして英国錬金術の復興者、そして彼自身も占星術師でした。アシュモールは魔術-宗教的伝統における、まごう事なき大きな拠り所でもあるのですから。

しかし、ではこの系譜はどこへ行ってしまったのでしょう?それは過去の科学的啓蒙主義の中で、薔薇十字、メイソン、そして神智学へと滑り込んでしまったのです。神智学? そう、ここで少し立ち止まり、これまでの常識的な理解を見直さなければなりません。リリーとアラン・レオの間には、ウィリアム・リリーとザドキエル、ラファエル、セファリアルのような19世紀の学者との間よりも、大きな類似性があるのです。同様に、リリーとレオの間には、リリーと現代の予言中心的な伝統主義者の間の間には見出すのが難しいような、その精神、態度の一致を見ることができるのも確かなのです。この継承は占星術の中に魔術的かつ霊的なものを喚起しようとする態度にこそ見出すことができます。リリーの伝統はそこにあるのです。

エンチャンテッド・ワールド 魔法に満ちた世界(脱呪術化される以前の世界)※1
科学的な啓蒙の後では、このようなことを素直に考えることはできなくなってしまいました。ユングがたましいの喪失と呼ぶようなかたちで、私たちの思考は分断されバラバラになる方向に進んでしまっています。ここでいう分断とは、リリーはエンチャンテッド・ワールドに生きていたと言ったとしても、それが本来意味したかたちでは受け取ることができなくなっていてしまっており、感傷的で歪んだかたちでしかそれを見ることができなくなってしまったことを指します。とはいえ、私には彼の世界について他にどのように語ればよいのかわかりません。そう、それは魔法に満ちた世界(enchanted world)だったのです。このことは、アシュモールが編集したリリーの日記からすぐに読み取ることができます。1630年代に占星術の研究を始めた当時、リリーは同時に魔術の研究もしていました。リリーは魔法の護符(シジル)のつくり方、そこに生命を与える方法を知っていました。リリーはダウジングロッドの使用法を教えることができましたし、水晶透視や精霊の召喚方法を理解していました。リリーは妖精の女王を呼び出すことの問題について論じています。「それは万人のためのものではない、人は何度も何度も天使的被造物への呼びかけ(コール)を繰り返すこともあるかもしれないが…..妖精は丘、山、木立の南側を愛するのだ。- 衣服の清楚さと清潔さ、厳格な食事、まっすぐな生活、神への熱心な祈りは、これらの好奇な方法に関心を向ける人々の助けとなるだろう」。リリーは教育ある人間でも、こうしたことを理解しようとした時、危険なほどに魂を引き裂かれそうにならずにすむ最後の時代に生きていたのです。

占星術は、この世界では重要な位置を占めていました: “未だ名前のない奇妙なるものthe Curiositiesを研究せんとするなら”とリリーは言います。 “占星術に精通することがなければ、その目的を成し遂げることはまずないだろう”(ダイアリーch 19)。別のところで論じておいたのですが、リリーの占星術のクラフトのユニークな力は、想像力の才能を伴って発揮されています。それは魔法の世界へ参与する力です。

となれば魔術とは不可分のエレクショナル占星術をリリーが実践していたことも驚きではありません。リリーはその驚くべき例をいくつか解説しています。しかし、ここで私たちへの重大な警告が出てきます。私たちは、リリーが1630年代に行っていた実践のために病気になり、そのことからリリーがその黒い魔術negromanticを放棄することになりその書物を焼き捨てることになったことを知っているのです。
ですが、これは魔術そのものを放棄しようとするものではありません。むしろ魔術を高めることを目指したものなのです。リリーはそこから、「預言的」propheticallな理解へ進んだと述べています。そのことをリリーは以下のような神秘的な言葉で述べています。
「私は所有していた書物や手にした写本から学んだのではない。それは占星術に内在するカバル(カバラ)から引き出されたのである」。これはリリーがロンドン大火の予言のような、ヒエログリフと呼ばれる木版画の図解の基礎となっています。このカバルについてリリーが残している唯一の鍵は、「アステリズムとサインと星座が最大の光を投げかけている」ということだけです(ダイアリーch15)。これはデカンの図像を含む、アラビア人にはよく知られていた星辰魔術の古代の伝統を強く示唆しています。

リリーのオカルト研究のもう一つの重要な次元は、トリテミウスによって再構築され、1522年に公開された古代の体系に関するものです。この体系では、惑星の天使が歴史のエポックを支配することになっています。リリーは、「その応用の多様さ」がトリテミウスと長らく関わる強い動機になったと述べています。「この種の研究における、必要とされる学びは、粘り強く読み続け、確かな判断をもってなされなければならない。完全なる隠遁、祈り、そして天使たちとの交わりを抜きにしては誰もこれは達成することはないだろう」

どこにもない国 The Country of Nonwhere
(心が)分断された現代の状態において、エンチャンテッド・ワールドに戻ることは容易ではありません。当時可能だったことが、今も同じように可能であるとは限らないのです。私は、何もジャンクなオカルトに飛び込むことでリリーを称えようなどといっているのではありません。
しかし、私たちにはできることもあるのではないでしょうか。現代の私たちのためにも想像力のための架け橋が存在しているのです。そのような架け橋の一つは、アンリ・コルバンが「ムンドゥス・イマジナリス(想像界)」と命名したものでしょう。コルバンはスーフィズムについての学者であり、偉大な神秘家であり占星術師であるイブン・アラビーを紹介してくれました。mundus imaginalisというフレーズは、アラビア語のna-koja-abad(どこでもない国)をコービンが翻訳したものです。ここでいう「どこでもない国」nonwhereは、最後の天球、土星の上の第8の次元に存在します。伝説によると、志願者が探求を始めると、彼は天球を介して上昇し、感覚的な世界をあるとき離れて何か別の場へ達します。そこで探求者は霊的なもうひとつの自分、あるいは天使的な存在を見ることになります。
この「どこでもない場所」とは、感覚的な世界に生きる私たちや、あらゆる生物が自分のスピリットイメージを持つ場所です。それは私たちが本当に存在する場所であり、私たちの感覚的な世界とは「どこでもない場所」の反映なのです。この「どこでもない」国はどこにあるのでしょうか?それは、プトレマイオスの天球を超えた、黄道12星座と恒星の中にあるのです。「アステリズム、サイン、星座」についてのリリーの神秘的な言辞を思い出してください。そこには天使が住んでいて、求めるもののもとに天使の姿がやってくるのです。

この「どこでもないところ」は想像力の世界です。しかし、この言葉には注意してください。コルバンは言っています。現代での「想像力」という言葉の用法はあまりにも堕落しているため、何かが想像上のものであると言うと、それは真実ではなく、フィクションであるということになってしまうのです。このため、彼はスーフィーの神秘主義者の意味を継承するために、ラテン語の用語であるムンドゥス・イマジナリスmundus imaginalisを作り出したのです。

想像力の器官はハート(心臓、こころ)です。ムンドゥス・イマジナリスを見るのはこころなのです。ここで、占星術を含む象徴主義の営みに対するスーフィーの非常に重要な解釈にたどり着くことになります。すべての象徴的な作業は「霊的なものを物質化し、物質的なものを霊的にする」ことです。これはスーフィーの人々が使っている言葉です。そしてそれは、私が、あなたが象徴を作りだし、占星術を作動させるときに、あなたも私もしていることなのです。私たちが象徴的な解釈を作り出すとき、私たちはどこにもないところから霊的なものを物質化し、物質的なものを霊的にしています。ここに占星術の神秘があるのです。

この占星術の営みは、厳密な(definite)なものです。占星術は中間的なスピリチュアル(ミドル・スピリチュアル)な営みであり、どこにもないものに働きかけ、象徴的な形に働きかけるものです。スーフィーにとって、物質的な次元と絶対的に霊的な次元の間に、心の想像力が自由に行ったり来たりする領域が存在しています。それが、私たちがスピリチュアルな生活の中で道を切り開いていくための方法なのです。この中間的な霊的な領域では、私たちは天使のような存在、私たちの体験世界の天使的なイメージと出会うことになります。私たちはまた、超越的な存在の支柱である天使的半身(angelic other),オカルティストには守護天使、ヘルメス思想の伝統ではダイモーンと呼ばれるものとして知られているものを求めているのです。

こんなものは現代の占星術とは遠く離れた無関係なものだと思われるかもしれません。しかし、ここには薔薇十字、メイソン、そして神智学を通しての継承を見ることが出来るのです。アラン・レオが立ち返ろうとしているのはこれです。みなさんの中で1916年の「時期尚早な」アラン・レオの死にたいしてチャールズ・カーターが述べた、辛辣な意見をご存知の方はおられるでしょうか。カーターは、レオが「頭の混乱」に陥る危険にさらされていたと言っています。例えば、レオは「星の天使」たちについて多くを書き始めたというのです。その人生の最後において、レオは「ひとりひとりの人間は天の父なる星、あるいは星の天使に属している」と教えました。そして、これがホロスコープだというのです。私は、レオは正しい方向に進んでいたのだと思います。レオの占星術の現象は、ムンドゥス・イマジナリスを明らかにしようとしていたのでしょう。そのためにアラン・レオは占星術を字義的なかたちで理解することはできませんでした。そこで、レオは占星術を見るための中間霊的な形式を必要としました。これがレオにとっては神智学だったのです。

私たちはみな戸惑っています。このような真実を知るものなどいるでしょうか。しかし、考えても見ましょう。ここでハードな伝統主義者の方に申し上げたいのです。もしルールに従いさえすれば、客観的な予測ができる実際的な技術を学べると考えているなら、リリーをみなさんは誤解しています。リリーからの贈り物である占星術という素晴らしい実践は、イマジナルなものに立脚しているのであり、それはこころと知性を合わせた想像力の営みを包含するものなのです。占星術での判断をすることは、象徴的な想像力の営みです。そしてそれは、どこでもない国において、天使たちと交わることなのです。

(本稿はジェフリー・コーネリアス氏のご許可を得て翻訳した)

※1 社会学者マックス・ウェーバー以来、近代化は「脱呪術化」Disenchantedされてゆくプロセスだと解釈される。

東京アストロロジー・スクール
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