「鏡の視点」とは

鏡リュウジが何を感じ、何を思考しているか。気楽なものからレクチャー的要素もからめた雑文コーナー。海外のアカデミズムの世界で占星術を扱う論文などの紹介も積極的にしていく予定です。

伝統を変容する

ブライアン・クラークさんは、世界のトップアストロロジャーの一人です。その深い心理学的な洞察と広い神話の知識は、多くの学習者たちの導きの光となっています。
今回、僕はメルボルンで開催されたオーストラリア占星術連盟の国際会議にスピーカーとして参加させていただいたのですが、そのときのブライアンさんの開会の辞があまりに素晴らしかったので、もし原稿というかたちでお持ちなら、日本で翻訳するのでいただけませんかとお願いしたところ、幸いにも原稿を送付して下さり、翻訳の許可をいただきました。
ここにご紹介して、みなさんとシェアすることにいたしましょう。
今、さまざまな占星術の技法が学べる状況になっていますが、その中で僕たちは本当の意味での占星術の「伝統」「エッセンス」を見失う危険もあります。このスピーチは、まさに僕たちの営みの本質を思い出させてくれる、素晴らしいものです。
(鏡リュウジ記)

++++++++++++++++++++++++++++++
伝統を変容する
文:ブライアン・クラーク 訳:鏡リュウジ

占星術には広範な伝統を有している。しかし、我々の伝統に核心と言うものがあるとすればそれはなんだろうか?幅広く多様なホロスコープの象徴、技法、そして理論の基盤に内在する性質とはなんなのか。この開会の辞は2018年1月18日、オーストラリア、メルボルンでの第22回FAA大会においてなされたものである。
http://www.faainc.org.au/faa-conference-2018/

伝統を変容する

私は、今回の講演のタイトルを、大会のテーマである「伝統を変容する」Transforming the Traditionから「変容する伝統」The Transforming Traditionと変更しました。占星術の「伝統」、そしてその伝統そのものが自らを変容してゆく性質を持っている点を強調しようとしたのです。実際、占星術の伝統は過去二千年にわたって変容を続けてきました。私は占星術の伝統に焦点を当て、思いを巡らせようと思います。私たちの伝統の核心とはなんなのか。その中に私たちはいかに身を浸し、洗礼を受けてきているのか。一方で私たちが、私たちがその一角をなしているはずの伝統の核心をいまだ理解せず、認識していないか、ということを含めてです。

「伝統」Traditionという言葉は、ラテン語のtradere、つまり伝達する、手渡す、安全に伝えてゆくことを意味する言葉に由来します。伝統といえば情報、知識、信念を言葉や行為によって伝えてゆくことを示唆します。時間をかけて…おそらくは何千年もかけて確立され受け継がれてきた思想、という願意があることでしょう。ある伝統の中には、相互によく似ていて、そしてそれとするすぐにわかる方法論や儀礼、技術、振る舞いなどをもつ、継承されゆく文化的信念が埋め込まれているとされます。とすれば、占星術は完璧にこの伝統の定義に当てはまるでしょう。

占星術は実に広範な伝統を持ちます。ときにその伝統は瀕死の状態になり、またときに繁栄しながらも、常に生き延びてきました。何千年もの間、天空が掻き立てる人間のイマジネーションが生み出す絵文字、シンボルのアマルガム(化合物)で有り続けてきたのです。私たちの伝統の大きな部分は口伝で伝えられてきており、そのため私たちの実践はしばしば、体系的であるというよりは体験的、逸話的なものとなっています。

占星術、つまり星々の学問は蒼穹(そうきゅう)の天を見上げ、私たちやその学徒たちの心を掻き立てて夜空のキャンバスに投影されたイメージから、意味や目的、そして道しるべを見出せようとしてきました。私たちの伝統は古代の象徴言語であり、ディーン・ルディアが言うように、私たちがその言語を知ることさえできれば、天は私たちに話しかけてくるのです。(注1)

私たちがわかちあっている、この技芸の象徴言語によって私たちの伝統は言い続けています。どのようにその言語は表現されても…平易にであっても詩的にであっても、診断的にであろうが情緒的にであろうが、古い語り口であれ現代的なものであれ…そこには共通の基盤があって、その基盤が占星術に人類のもっとも古い伝統という地位を与えてきたのです。どんな言葉遣いを私たちがしていようと、星の夜空を見上げ木星と金星の会合を見たとき私たちの心は鼓舞され、土星が太陽にかぶさったときに私たちはみな嘆くことになるのです。私たちの伝統を貫くこの一貫性が私たちを一つにつないでいます。そう、占星術は常に変化しています。しかし、占星術は同じであり続けています。占星術の精髄はけして変わらない。そのときどきの形態で変わることはなく、それは永遠であり続けるのです。 (注2)

しかし、占星術の核心にあるこの精髄とはなんなのでしょう?ホロスコープのシンボルの多様性の基礎にある内的特質とは何なのでしょうか。私にできるのはただ私の想いをお伝えすることだけです。

伝統には霊的、あるいは宗教的要素が含まれるものです。ここでは組織宗教の事を言っているのではありません。ただ、私たちよりも大いなるものとの出会いを指しています。心的なるものの感覚、召命、そして魂のつぶやきです。占星術は天空を計測して判断を下すものではありますが、その天空には人格化された神的な存在が多数住まうところであり、本質的に神卜的divinatoryなのです。ですから、このように言うこともできましょう。占星術の伝統とは情報化されたイマジネーション、あるいは神的なものとの熟慮(注3)された上での出会いなのである、と。

占星術の伝統は、その中に私たちを引き込むやりかたもまたユニークです。ほかの多くの伝統と違って、占星術は体系だっても統制されてもいません。占星術は合理性、事実性、そして認識可能性の向こうにある、もうひとつの「知」のありように依拠しています。このような天の感知は、強く、また色彩豊かな糸となって占星術の伝統の織物を綴っているのです。神的なものと出会わず、また神的なものを深く考慮せずに、占星術に深く関わることはできません。

今回の大会のプログラムには、私たちの学問の瞑想的、あるいは霊的な次元に触れる先人たちのいくつかの引用を添えておきました。そのうち一つを読んでみましょう。ヴェッテス・ヴァレンスからのものです。

、、、私が神的なるものをかいま見て、天の理論を崇めるとき、私は人生のうちのあらゆる罪と穢を浄化するよう、不死の魂に従うように望むのである。そのことにより神的存在は私と言葉を交わし、そして正気で研究する知的能力を得ることができるのである。 (注4)

ここでは「すべての罪と穢を浄化」というのは脇におきましょう。そして「正気」というのも。(笑)そして、占星術を貫くこの神的なものの筋に敬意を払いましょう。霊感の、無限の可能性の源として、想像界的な天を求めようとする態度に、です。それは人類の発達に奉仕するために、それを神秘主義や、あるいはヘルメス的伝統と同一視しがちですが、しかし、その態度はそんな単純に分類できるものではありません。その特質において、それは神卜的Divinatoryであり、神的な存在、あるいは大いなる存在より導きを求めるものだとは言えますが、その存在はなんと呼んでもよいのです。そう、女神でも、宇宙でも、無意識や元型でも、あるいはパターン、さらにはカルマ、でも。その性質は人間の感受性を超えています。

私たちは占星術に知的な好奇心を抱くこともあるでしょう。あるいはその正確さに魅了されたり、驚嘆させられたり、ときに恐れを抱くことすらあるかもしれません。私にとってみれば、知り得ていないことを占星術が告げることで感じる驚き、驚嘆、そして戸惑いがいまだに続いていること自体も、伝統の一部だと感じています。それは空で生けるという点で神的存在、その完璧な美という点で真にコスミック(注5)なもの、しかし、人間の知性では捉えきることができないものなのです。

私たちの伝統には星の言葉を学ぶための方法が無数に存在します。ただ、ここで私たちは技法と伝統を混同してしまう危険があるのです。私たちの伝統には、確かに技術的な知識も含まれています。しかしそれは伝統の核心ではない。占星術の伝統は数多くの技法、…そう、ときに変化し、ほかの伝統でもそうであるようにしばしば失われ、また再発見されるような技法や習慣がありますが…そうした技法をすべて抱え込む優美さを持っているのです。技法は扉を開きます。しかし、私たちの伝統は、それらの技法を通して何かを観てとる仕方にあるのです。ときには占星術の技法の複雑さに圧倒され、方法の多さに混乱し、また公式同士の矛盾に幻滅することもあるでしょう。しかしそれは占星術実践という儀式に参入するために必要なイニシエーションでもあるのです。私たちは、無数の方法論のなかから自分にあうものを探し出し振り分けてゆきます。ある技術の正確さや洗練さに目を見張ることがあったとしても、その技法がほかの方法よりも優れているということはできません。もしそうしてしまうなら、占星術を知的な論議や証明のレベルにおとしこむことになり、それを事実主義へ矮小化してしまうことになってしまいます。私たちの伝統はシンボルの知を内包します。それはもうひとつの知のありようへと私たちに扉を開くのです。それは合理を超えた認識への道です。

私たちの伝統はシンボルとの会話を含んでいます。占星術は私たちを、聖なるもの、神秘なるものを大切にする象徴的生へと誘います。私たちは日常の責任や日々の仕事にまみれて、しばしば象徴的な生き方を見失うものです。しかし、象徴はいつも私たちを取り囲んでいて、日常の仕事や世俗の雑務の只中にあったとしても占星術のホロスコープは見事なシンボルの配置を見せて私たちを再び想像界的な世界へと招き入れます。こうしたホロスコープのシンボルを総合するアートによって、あなたも占星術の伝統を担ってゆくことになります。

シンボルとは名づけえぬものへの仲介人であり、曖昧なるものへの大使です。だからこそ知性はシンボルに重要性を見出しています。哲学的、あるいは概念的枠組みによっては伝えることができないものに象徴は価値を与えることができるからです。ひとつの象徴は何か特定のひとつの事柄だけを指し示すことはありません。象徴は価値を判断したり、倫理的に審判を下したりもしないのです。象徴は意味や啓示へと私たちを指し示し、私たちが本来そうであるような、忘れていた真実にかたちを与えます。何十年も前、私の先生であったイザベル・ヒッキーがこうおっしゃったのを覚えています。「占星術はシンボルを扱います。そして魂はシンボルを語り、シンボルにおいて考えるのです」(注6)彼女はシンボルが自らをあらわにさせるかを見つけることがいかに重要か、ずっと強調していました。そして実際、40年たった今も、ホロスコープの同じシンボルがその深い意味を、何層も何層も深めながら顕にしつづけていると、ここで言っておきましょう。シンボルはけして固定していません。生き続けて、息吹をもっていて、生命を吹き込まれるのです。それは私たちがシンボルを探求することによって、です。

象徴の言語やイメージはあらゆる宗教が神的な、あるいは人間の理解を超えた領域に敬意を払うために用いてきたものです。シンボルは、魂にとっての詩的な言語です。それぞれのシンボルは、合理的な認識の彼方にある内的なリアリティの次元を…ただし、その次元は外的な事象とも照応関係にあるのですが…開示することになります。そこでホロスコープのシンボルは二つの顔をもつことになります。一つは現実を開示し、もう一つは魂を開示することになるのです。 (注7)

占星術のシンボルは諸刃です。占星術の言語は天と地、夜と昼、字義的な世界と想像力の世界を結ぶ精緻な象徴言語であり、字義通りの世界と魂をともに顕示してゆくのです。私たちの占星術の伝統は、シンボルに意味を見出していきますが、けしてそれを固定化したり、定義づけたりはしません。ただシンボルに私たちの想像力をかきたてるのです。私たちの伝統は想像的なもの。天体の巡り、循環、移ろいという知識が生み出す想像力によります。ですからそれを、知識に満ちたイマジネーション(informed imagination)、あるいは熟考された直感と呼ぶこともできるでしょう。技法は熟考すべきこと、その領域や特質、そしてその属性などを示しますが、その可能性の扉を開いてゆくのはイマジネーションなのです。

もうひとつの文脈を見てみましょう。天職(vocation)ということについてです。ざっくりといえば、私たちの伝統にとってのミドヘブンやICは何にあたるか、ということです。その現実的なあるいはルートメタファーはなんでしょう。私たちの伝統は合理主義が立ち現れる以前に生まれています。満天の星空は、それが計測され、客観的にとらえられるよりいぜんから、私たちを魅了してきたのです。惑星たちは、私たちが最初に見上げた時と変わらず、今なお神的であり続けています。
星たちの啓示に預かり、その神性に触れるためには、ただ星を見上げるだけでは足りません。星の向こうの、宇宙の永遠とその神秘を見透かすことが必要なのです。そしてこのメタファーの精髄こそが、どのような学派であるかを問わず、占星術家を突き動かしてるのです。星の輝く天空は私たちの理解をはるかに超えた世界の体験を常に与え続けてくれます。星の輝く天空は私たちの知性を声、私たちの内的な存在に秩序の感覚を与えています。天をなんと呼ぼうと、私たちは自分たちを超えた知性存在を誉め、宇宙に生命を与えているスピリットの神秘と聖性に預かるのです。占星術は前―合理の心を涵養(かんよう)します。そこでは神的なるものが満天の夜空においていまだ感知されるのです。
星の空の占星術のルートメタファーは、学派によらずその技法や方法を凌駕します。占星術にかかわるものは、その占星術が経済であれ心理であれ、伝統派であれ現代占星術であれ、魔法を経験します。しかし、私たちは合理主義者を納得させたり、懐疑主義者からの批判をかわすことはできません。想像的な真実は計測も計量もできないのですから。またそれは試験管の中や顕微鏡では見ることはできません。そのメタファーを聴くのは第3の耳であり計測される字義的な天空の向こうに霊感に満ちた啓示を見通すことが出来るのは第3の目なのですから。占星術のミューズであるウラニアは、私たちが物理的に星を計測するようになる以前から、星の明るい夜が私たちを楽しませ、感動させてきたことそしてその不思議な同調性に感嘆させてきたことを思い出させるのです。この神秘を容易いことばで説明することは不可能ですし、またそうする必要もないでしょう。その深淵な啓示に心揺さぶられたことがあるなら、占星術は、経験で証明することが必要な外的な世界ではなく、私たちの胸のうちに生を得るのです。

ここで召命としての職業と生業を区別しておこうと思います
私たちの歴史を通して、いくつかの注目すべき例外はあるものの占星術は基本的にメインストリームではありませんでした。占星術はたいてい、支流のほうへと流れていきます。想像力が大切にされない文化においてはとりわけそうです。現代においては占星術家はしばしば、互いに孤立、周縁化していると感じています。そこでいま、私たちがやっているように集って私たちの伝統を賀ぐことをするのです。FAA(オーストラリア占星術連盟)がその例であるように、団体を作って私たちのアイデンティティを示し、倫理基準をつくって伝統に責任を持とうと、職業としての占星術家の帰属先を作ることもあるでしょう。しかし、職業としては占星術はあくまでも召命に基づくものであり、占星術家はそれぞれ独自の道を、有給休暇や疾病手当も、最低賃金も保証もないまま、1人進んで行くものでもあります。

占星術家は占星術の道へと召命を受けるものです。とはいえ、それはとくにフルタイムの仕事であることを意味はしません。私にとってそれは、占星術の伝統に対して責任を持つということを意味します。初心者の時、私たちは誰かのチャートを見るとき「ちゃんとできているかどうか」と大きな責任をかんじるでしょう。しかし、皮肉なことに「ちゃんとできる」のはほかの誰でもない、あなただけなのです。火星が牡羊座の支配星であり、天秤座の15度から蠍座の15度までがヴィアコンバスタ、“炎の道”であることを知っているなら(つまりは伝統的な占星術のルールを一通り学んでいるなら)、あなたはご自身の、あるいは誰かのチャートのシンボルを見るときに自分の足で立っているのです。しかし、いっぽうでの伝統を歩いている先達もいます。同じ道を歩き、やがてあなたがそうするであろうように、同じ秘密を見出してきた人々です。私がスーパーヴィジョンを推奨するのはそのためです。伝統は知識の口伝を大切にし、先達たちの価値ある知恵を通しての知識の継承を尊ぶのです。占星術は偉大な先達からの遺産を引き継いでいます。それは深く価値ある知恵を与えてくれます。私たちは自分の教師を見出しますが、また、私の先生の1人が言ったように、生徒はやがて教師を越えて行くでしょう。それが伝統の中の伝統なのです。先達を認識すること、そして私たちがときに理解しない、あるいは受け入れることができないことを先達がいうことがあることを覚えておくのは、重要です。しかし、これもまた知恵の道でしょう。

占星術は一つの道ですが、そこをどのように行くかは一人一人違います。頑丈な靴を履いて、食料や水をリュックに入れて準備万端で行く人もいれば、私のように、ときにどの道を歩いているか忘れて、セブンイレブンに入り込んでしまうような人もいるでしょう。万人のための正しい方法や唯一の道はありません。あなたの資質、テンペラメントによっても変わるでしょう。もしかしたらイザベル(ヒッキー)のいうように前世によるのかもしれません。占星術の道を行くときには、理解を助けてくれるガイド、教師、友はいます。しかし、私たちの経験と洞察は、そうした人々のものとは異なったものとなるでしょう。

さきほど、占星術の魔術についても触れました。ここで「魔術」を二通りにわけてみることいにしましょう。組織だった、あるいはフォーマルな魔術と、自然に起こってくる魔術とを区別したいのです。占星術は確かに、魔術と歴史の上でつながっています。ギリシャの魔術パピルスやピカトリクスはすぐに頭に浮かびますね。占星術の伝統は組織的な魔術に手を染めることもありましたし、また、占星術はそれ自体が魔術的です。ただし、それは魔術の技法や呪法、あるいは呪文や満月のときの魔術という意味ではありません。占星術が魔術的だというのは、シンボルへの参与、あるいは感受性という意味でのなのです。魔術、心霊主義、オカルトやそのほか私たちを魅了するさまざまな形態の神秘を実践する占星術家も多くいます。しかし、占星術における魔術の伝統というのはシンボルにたいしての自発的かつ、即融的な実践のなかに存在するものです。占星術的な魔術は、けして操作の対象ではありません。(「使う」ものではない)しかし、私たちがシンボルを知性をもって、そして敬意を抱いて扱うときに星の魔法は私たちを通して作動し始めるのです。

魔術の実践者は、マギでした。そして古来より、マギは占星術家を含んでいます。私たちの伝統は司祭や見者のそれとつながっています。ときとして占星術は魔術の具体的な実践とも組み合わさることもありますが、しかし、占星術の魔術とは「見透かす」Seeing throughのことだったのです。占星術の魔術は文字通りのものではありません。星の魔法なのです。

ウイリアム・リリーも魔術に飛び込んでいます。リリーが魔術を実践しはじめたとき、彼は護符魔術、水晶透視、精霊召喚など「驚異の技」(インクレディビリア)とリリーが読んださまざまな形態のオカルティズムを試していました。しかし、リリーが行っているように、こうした実験をやっているうちに彼の健康状態が悪化していったのです。「日に日に痩せこけていってしまった」(注8)のでした。これがきっかけになってリリーは魔術から手をひき、数年後には魔術書を焼却することになります。リリーが魔術を実践していたことが、リリーがホラリー占星術で大きな成功をした理由だと考えることができるでしょうか?私個人は、ある人々がシンボルやスピリチュアリティに生まれながらに同調する素質をもっていることがあるように、リリーは魔術的なものへの素質があったのだと思っています。占星術という伝統を実践するときには、魔術が起こり、シンボルが語りだし、スピリットたちが動くことはあります。しかし、魔術を作動させようと人為的なことをしたり、強制したりする必要はありません。シンボルにたいして開かれると、そうしたことは自然に起こってくるのです。ときとして、そのような魔法はだんだんとはっきりしてくるでしょう。どんな伝統でもそうですが、魔法はその人に応じた速度で育ってゆきます。
ギリシャ神話の神格では、魔術と関連するのはヘカテであることを思い出しましょう。ヘカテはアストリアの娘にあたります。アストリアとは、「星のような存在」だとか「星の」といったくらいの意味で、ギリシャ語の星を意味するアスターasterから来ています。魔術はつねに星とつながっていたのです。面白いことに、神託の神であるアポロはアステリアの甥で、ヘカテの最初の従兄弟にあたるのです。ですから魔術と神託、そして星はギリシャ神話においてはみな、関連しあっています。

魂について。ところで、魂について触れましたでしょうか?私は、占星術の実践は魂づくり(ソウルメイキング)だと感じています。シンボルと深くかかわることは魂を取り込み、魂をかきたて、そして魂に静かな敬意を示すことでもあるからです。私たちは占星術のシンボルと深く関わることでこの世界に魂を吹き込みます。そしてこの世界が魂で満ちた時に、この世界はより豊かで、意味に満ちて、そしてソウルフルになるのです。魂についてはさまざまな考え方があるでしょうし、その探求の道についてもさまざまでしょう。しかし、究極的には占星術の伝統とは魂とその神秘にかかわることであるといえるのです。

ただ、私たちのパーソナリテイと魂は別物で、魚座の二匹の魚のように別方向に泳いでいます。占星術を提示するその仕方が難しいのはこのためです。私たちの洞察や理解は、占星術の伝統を支え、発達させていくことになるのでしょうか。あるいはそれは私たち自身や私たちの野心を支え、発達させることになっているのでしょうか?

ほかのどんな伝統でもそうですが、私たちが答えを知っていると考え始めたり、あるいはもっと悪いことに、全てに応えられると考え始めたりするときに、自己肥大、誇大、そして原理主義といった影の面、危険が出てきてしまいます。ジェイムズ・ヒルマンは2005年にバースで占星術家たちのグループの前で講演しました。そのとき、占星術の危険についても触れていました。「占星術は元型的である、元型的であるということは強制力をもつほどに強力で、ゆえに危険」であるので、「情緒を強烈に動かす」危険があるというのです。占星術の知は、ときとしてある力、催眠的とも言える力を開放します。それは私たちを高揚させるけれど、救うことはない、そんな力です。その力にいったん囚われると、私たちは自分が知っていること、あるいは知っていると思い込んでいることによって肥大してしまい、自身を過剰につけて支援(アシスタンス)ではなく、忠告(アドバイス)を提供しはじめてしまいます。このような自我肥大に陥ると、私たちは本当は何も知らない、ということを知っていることから生まれてくる神託の知から離れ、二元論的な思考に囚われることになってしまうのです。
ですから、まずは私たちは自己の涵養や繊細さを発達させることに注力するのが大事です。禅の寓話にあるように占星術を日常世界に入れ込む前に、まずは皿を洗い、家を掃除し、自分自身の面倒を見ることができるようになることが大切です。

デルフィのアポロン神殿に掲げられていた嘆願は「汝自身を知れ」だったことが思い出されます。占いdivinationの技芸(アート)においては、結果が明らかになる前に自分を振りかえり、熟考(コンシダー)することが必要になるのです。

ヒルマンが述べていた危険は、字義主義です。ヒルマンは「私が何年も、さまざまなやり方で、そして何度も格闘してきた危険」(注9)だとその字義主義の事を言っています。占星術家はしばしば、字義的、事実主義的、そして予言的になるように強要されてしまうことがあります。クライアントが聞きたいことを言わせられることもあるものです。シンボルに声を与えることも私たちの伝統の一部でありますが、そのためには、それを見透かし、それを超えて、信託的になることが必要です。占星術のイメージを客観的な時間、あるいは現実的な時間の中に存在すると考えるようになるのは大きな危険です。すでに述べたように、占星術家はしばしば、字義主義的になるのは一種のアイロニーでもあるのですが、しかし占星術が働くのは因果律や土星のトランジットのせいではなく、占星術のイメージに私たちが深く関わっていくときに神話的、象徴的即有を通して起こってくる、簡単には説明のつかない現象なのです。

私は占星術を科学や哲学には収まりきらない、あるひとつの言語、宗教、魔術として語ってきました。また魂についても言及し、性格分析などについては無視しました。私たちの伝統はひとつのものではなく、これらすべての複合です。そしてどんな複合物もそうであるように、総和はつねに部分よりも大きいのです。占星術の本質は啓示的であり洞察に富んでいます。とはいえ、その深みと精髄を説明し尽くすことができる言葉はありません。占星術は観察することもできますが、より重要なのは経験すべきだということです。すでに申し上げたように、占星術の霊感は情報となり、その想像力には焦点があてられ、その啓示は熟考されます。占星術の啓示は天なるものではありますが、私たちの手の届かないものでもないのです。

占星術は広大無辺な宇宙、天の美しさへの美への畏敬を呼び覚まします。その伝統は天空への想像力、私たちの頭上にかかるマジカルな傘を支えて、私たちの人生の大いなる神秘へと私たちを誘います。軽く、あるいはユーモアの感覚で占星術と戯れるときですら、占星術は私たちをもうひとつの知のありようへ連れ出します。驚き、敬い、そして尊さへと私たちを導くのです。

------------------------------------
1 Dane Rudhyar, The Birth Chart as a Celestial Message, an Address given to the AFA 1976 Convention, http://www.khaldea.com/rudhyar/astroarticles/celestialmessage.shtml [accessed 29 12 2017]
2 メラニー・ラインハート氏との会話によってこのアイデアが生まれた。
3 訳注:ここでの熟考はconsiderだが、この言葉はもともと「星とともに」(con-sidre)から来ている。
4 Vetius Valens , Anthologies, VI, 1.15 (end), 16; p. 232.6-10 Pingree (Dorian Greenbaum translation)
5 訳注;コスモスという語には秩序という意味もある。転じて美。
6 これはイザベル・ヒッキーIsabel Hickeyが以下の本の序文で書いていることと似ている。 Astrology A Cosmic Science, Altieri Press, Bridgeport, CT: 1972, 6.
7 Paul Tillich, “The Nature of Religious Language”, Theology of Culture, Oxford University Press (Oxford: 1959), 56-7.
8 https://classicalastrologer.files.wordpress.com/2012/12/tl_thelifeofwilliamlilly.pdf [accessed 29 12 2017]
9 Hillman, James, ‘Heaven Retains within Its Sphere Half of All Bodies and Maladies’, at http://www.springpub.com/astro.htm [accessed 15/01/2004; no longer available]; a lecture given at the Alchemical Sky conference in Bath, UK in May 2005

東京アストロロジー・スクール
  • twitter
  • facebook
  • line
  • lineblog
鏡の視点