「鏡の視点」とは

鏡リュウジが何を感じ、何を思考しているか。気楽なものからレクチャー的要素もからめた雑文コーナー。海外のアカデミズムの世界で占星術を扱う論文などの紹介も積極的にしていく予定です。

英国の占星術家マギー・ハイド氏の寄稿文「自由意志の占星術」1

英国を代表する占星術家のひとり、マギー・ハイド氏より以下の文章を頂きました。マギーさんといえば、英国の占星術団体「カンパニー・オブ・アストロロジャーズ」の創設者のひとりであり、ユング研究者にして実践的な占星術家です。僕の訳した『ユングと占星術』の著者でもあり、来日されたこともあるのでご存じの方も多いでしょう。ぼくも大変にお世話になっている方です。

マギーさんは、伝統的占星術と心理学的な占星術の双方に通じておられ、しかも哲学や心理学にも造詣が深く、ケント大学などで教鞭をとられる数少ないアカデミックな占星術家。その一方でとても温かなお人柄の持ち主です。

この短いエッセイには、マギーさんたちの占星術へのアプローチの仕方がよく表れています。

日本でも占いの入門書では占星術で客観的に全体的な傾向を、タロットなどで具体的なことを占うべき、などという指南を見かけます。

しかし、これはおそらく誤りなのでしょう。占星術は天体の動きという壮大な数学的モデルを道具として使っているために、「客観的」なものであると考えられがちですが、そこで行われていることは、本質的にはカード占いと同じような、本人の意識的参与と行動が必要なDivinationなのである、ということがはっきりと述べられています。

ぼくもこのアプローチには完全に賛成です。では、マギーさんからのエッセイをぜひどうぞ。

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「自由意志の占星術」
文:マギー・ハイド  翻訳:ベン・ジョーンズ

この「自由意志の占星術」という題は、近代占星術の父であるアラン・レオの夫人であったベシー・レオが自分と夫のアランを称して呼んだ、「自由意志の占星術家」という言葉からとりました。

ベシーのこの声明は、アラン・レオが生涯をかけてなしとげようとした努力をよく表わしています。レオが打ち立てようとした占星術は、宿命論的、決定論的な占星術から離れ、「性格こそ運命なり」Character is destinyという神智学的な信念に基づいた、スピリチュアルな次元をもつ占星術だったのです。

レオと同じような占星術を宿命論から開放する努力としては、デーン・ルディヤーのヒューマニステイック占星術の創造もあげられます。アラン・レオの自由意志の占星術もデーン・ルディヤーのヒューマニステイック占星術も、占星術の枠の方向を変え、私たちを拘束し限界を与えるもの、特に手枷・足枷となる時間についての誤った意識から開放しようとするものでした。この主題を更に掘り下げるなら、時間と先行決定論の束縛がより少ない占いの形を考えてみるとわかりやすいでしょう。

たとえば、タロットを例にとりましょう。そこで行われていることは明白です。そこにあるものは一揃いのシンボル、特定の状況、一つの質問、一つの問題です。そして質問をする誰かがいて、カードのシンボルを読んで解釈する術者がいます。読み手はシンボルを通して、質問者と一緒に、ある真実に到達するため熟考し心を砕くのです。

その真実に行き着き、理解が明確になされたとき、行動が起こされます。私たちは占いに基づいて、自分が抱えている問題に対してどのような行動をとればいいのかを決めることができます。その全プロセスはひとつの枠の中にあり、目的を持ち、あらゆる点で能動的です。

このプロセスの要点は、私たちは、行動を起こすためにこそ、自分自身でこれらのシンボルを見るという点にあります。つまり、予兆(オーメン)に賭け、予兆を信じて行動を起こそうとしていることになります。

易の場合も同じです。私たちはコインを投げたり数えたり、筮竹を使って易の卦をだして、そうしたシンボルの意味が実現していくように考えを深めていくのです。

この過程は占いでは根本的なものですが、そのことについては、フィリップ・プルマンの「ライラの冒険」三部作の中に素晴らしい描写があります。

主人公の少女ライラは真理計(アレシオメーター)という珍しい器具を所有しています。ライラは真理計の複雑に重なったシンボルをどう読み取るかを独習したのです。「夜にはしごを降りるとき、足をおろせば次の横木があるでしょう? 私もそれと同じように、自分の意識を下へ潜らせると、別の意味が見えてくるの。眼の焦点を合わせるときのようなコツがあるけどね」このプロセスは当てずっぽうなものではありません。

「ファーダー・コーラムはチェスをたしなみ、チェス・プレイヤーたちが試合中の勝負をどう見るかを知っていた。熟練したプレイヤーは、チェス盤上にさまざまな勢いや影響の力線を見分け、マイナーなものに気をとらわれずに重要な線だけを目で追っていたようだが、ライラも同じような眼つきで、彼には見えなかった磁力線を辿っていた。」(『黄金の羅針盤』)

ライラについてはまた後で触れることにして、私たちが占星術から真実を探り当てるとき何が起こるかについて考えてみましょう。

真理計であれタロットであれ、私たちは幾つかのシンボルを見ることを自分に課しますが、重要な違いが一つあります。タロットと違って私たちはカードを切って決まった配置に並べるわけでも、ライラのようにさまざまなシンボルの上を揺れる針を見つめているわけでもありません。各種の占いには、それなりの枠と型があるのです。

占星術でも枠と型を用いますが、占星術で特徴的なのは、天体の位置と時間の経過におけるある瞬間が重要なこと。これらは私たちが配ったり並べたりできる次元のものではありませんが、しかし、やはり占星術家はある枠を自らに当てはめています。

私たちは自分を特定の枠の中にはめていますが、配ったり並べたりしていないため、その枠を作っているのが「自分自身」だということを見失ってしまい、枠が自分の行動から完全に切り離された「客観的な」真実だと思い込んでしまいます。

そうなると、天体の動きの確実性を運命の推定される確実性と取り違えてしまい、ずっと以前から知られる天体の運動に沿って事前に定められた宿命というものに、時間という錯覚を通じて、自分自身を縛りつけてしまうのです。天体の運動で私たち向きに決定されてしまう「運命の機械」としての時間の枠に自分を縛り付けてしまうことになってしまいます。

こうした世界観は天体が運動を通し、あらかじめ定まった運命を機械的に作り出し続ける「継続的な照応」の世界に私たちが生きているという仮定にもとづいています(Geoffrey Corneliusの『The Moment Of Astrology』95、110ページ参照)。

こうなってしまうと、私たちは自分の自由意志を見失い、まるでさまざまな物事が起こるべく運命付けられているかのように、自分を宿命のうちに閉じ込めることになってしまいます。

このことについて私は著書『ユングと占星術』で、古典的占星術家と現代の心理学的占星術家双方が同じようにかかえている問題だと指摘して、深く論じています。どちらの場合も「人間的事象をあらわにするため、物質世界を儀式化された枠の中で取り扱い、人間に『ついて』明らかにされた、潜在する客観的真実を物質世界が具現化しているとみなす」となります(同書)。

このような世界観に落ち込んでしまうと、シンボルのリアリティは完全に私たち自身の外部に置かれてしまいます。

例えば、ニューヨークの世界貿易センターのツインタワーがテロで破壊された時、双子座に入った土星がアメリカ合衆国のチャートの地平線軸の上で、冥王星と正反対に位置する、緊張・衝突・対立をあらわすアスペクトをとっていました。これはあの時、本当に起きたことです!

しかしこのような出来事のシンボリズムを畏怖の念を持って見る際、必然性が表れるのは出来事の後であって、決してその「前」ではないということを忘れないでください。

(つづく。7月31日更新予定)

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